そういう年代パート2。

10月15日(木)に親父が旅立った。
癌末で、1~3カ月の余命宣告を受けたのが、9月上旬のことだった。
コロナのご時世で、本人を含め家族で話し合った結果、自宅で看取ることに。
1カ月と10日余り・・・親父は、癌と戦い割と安らかに旅立った!
余命宣告の告知を受けて、最初はショックだったみたいだけど気丈だった。
実家の近くに住んでいるので、朝、仕事終わりに実家に顔を出し、親父の調子を窺った。
妹も出来る限り実家に顔を出したし!
3週間くらいは日内変動があるものの、夕方俺が実家に顔を出すと親父も割と調子がいい時もあり、何度か一緒に酒を飲んだ!
親父が好きな巨人と俺が好きなホークスの話しなどをしながら、他愛のない話しをしながら親父の最後までの時間を家族で過ごすことができたと思う。

いつかの週末、俺と妹の家族が集まった時に、親父が「賞状用紙と額縁を買ってきてくれ!」と言う。
お袋から「お父さん、何するとね?」と言われても、黙っている親父。
お袋が席を外した沖に、俺にボソッと「俺が死んでも記念に残ろうが。」と笑顔で言った。
それから近くのホームセンターに行き、賞状用紙と額縁を数枚買ってきた!
親父は、手が震えながらも、4人の孫たちにユーモアたっぷりな表彰状を書き、何と俺や嫁にも書いてくれた!
俺への表彰状は、ユーモアはなく真面目に『お袋をよろしく頼む』との言葉で最後を締めくくっていた。
お袋や妹の表彰状を書こうとしていたけど、きつくなったみたいで、そのままベッドに・・・。
その後、お袋や妹に表彰状を書くことができなかった・・・。
親父は、それが悔いが残ったと思う。

最後の2週間は、食事をとることができなくなり、段々と動けなくなっていった。
お袋が看病で疲れていたので、俺と妹と交互に泊まって親父の看病を・・・。
寝れないんだよな~!
( ̄。 ̄)ぼぉ~~~っとしながら、仕事をすることもしばしば。
そういった日々を過ごしていて、俺が泊った日の10月15日の夜中2時半過ぎに親父が急変した!
何度かポータブルトイレで介助をしながら用を足したあと、ベッドに寝かせるとフ~フ~きつそうな息遣い。
いつもは、しばらくすると収まるんだけど、ず~~っときつそうだ!
身体をさすりながら呼びかけると、「足が痛い!」と言う。
足をさすっていると、目を見開いて瞳孔が開きつつある!
これはタダごとでないと思った俺は、お袋を叩き起こして訪問看護師と妹に電話をする。
お袋と2人で親父に呼びかける。
「お父さん!わかる?」とお袋が呼びかけると、小さな声で「は~い。」と返した。
血圧や脈拍を計るけど、数値が出ない・・・。
妹、訪問看護師が到着した時は、虫の息だった。
親父は、3時過ぎに旅立った。
家族で、親父の最後を看取れたのが幸い。
訪問診療の先生が4時前に到着して死亡を確認したので、それが死亡時刻になっているけど、正確には3時過ぎだ!

それからは、通夜、葬儀、初七日と怒涛だった!
悲しむ間がなく、即断即決で色んな決め事を決めていき、親父を見送った。
親父は癌末だったけど、痛みをそんなに伴わなかったので、そういう意味では安らかに旅立てたと思う。
忌引きが1週間だったので、通夜告別式などの前半は忙しいだろうけど、後半はそんなにないかな?と思っていたら、やることがたくさんあって!
役所関係の手続きや親父の携帯の解約など、次々とやることがあって・・・。
まだまだやることが残されているので、しばらくは忙しい日々が続きそう!
今は、病院や施設などで最後を迎える人がほとんどだけど、1カ月と10日余り家で家族で最後まで親父と一緒に癌と闘うことが出来たので、俺たち家族も悔いを残すことがなく親父を最後まで看取ることが出来たと思う。
親父も安心して旅立てたと思う。
読み返すことなく、思いをつらつら書き綴ってしまったので誤字脱字が沢山あるかもしれない。
最後まで、読んでくださりありがとうございましたm(__)m
重ね重ね、コメントや気持玉ありがとうございましたm(__)m
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